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次世代に伝えたい「枚方の戦争体験談」~禁野火薬庫・香里製造所~

[2021年3月22日]

ID:34076

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※「枚方市平和の日」である3月1日以降、順次、戦争体験談動画を更新予定です。

※体験談を語っていただいた方々の年齢は、動画収録時点のものです。

禁野火薬庫の大爆発体験談

山本勇治さん(89歳)

爆発当時、小学校1年生であった山本勇治さん。母親と布団をかぶって逃げる様子や逃げる際に空から破片が飛んできたことなどの体験を語る。
再生時間:13.5分

永野光明さん(87歳)

爆発当時、5歳であった永野光明さん。黒い煙が上がり、凄まじい爆風や音とともに火柱が上がる中、着の身着のままに家族と逃げたことなどの体験を語る。
再生時間:12分

香里製造所に学徒動員された体験談

森田隆子さん(90歳)

学徒動員された当時、女学生であった森田隆子さん。危険な環境の中で、昼夜の別なく砲弾や爆弾に火薬を詰める過酷な労働を強いられたことや機銃掃射を受け逃げまどったことなどの体験を語る。

再生時間:0分

久保三也子さん(91歳)

学徒動員された当時、女学生であった久保三也子さん。香里製造所の作業場や寮での生活の様子や、黄色火薬より顔や体が真っ黄色になりながらも、過酷な労働を強いられたことなどの体験を語る。
再生時間:0分

「枚方市平和の日」とは

(1)「軍需のまち」、枚方

枚方市には戦前から戦中にかけて、禁野火薬庫・枚方製造所、そして香里製造所の旧陸軍施設が3カ所ありました。日清戦争が勃発し、明治29年(1896年)には、火薬を収蔵するため、禁野火薬庫が建設されました。昭和12年(1937年)の日中戦争の発生以後は、弾丸・信管を製造するため、禁野火薬庫の東隣に「枚方製造所」が建設されました。また、中国との戦争が激しくなった昭和14年(1939年)には、戦争で増大する火薬の需要に対し、新たな成型や充填の作業が必要となったため、香里製造所が開設されました。このように枚方は、陸軍の禁野火薬庫をはじめ枚方製造所や香里製造所なども稼動する「軍需のまち」としての名前を轟かせていました。

(2)禁野火薬庫の爆発

昭和14年(1939年)3月1日午後2時45分、第15号倉庫で砲弾解体中に不意に発火。消火作業中の午後3時29分に填薬弾に引火、天地を揺るがす大爆発が起き、約700人もの死傷者を出しました。

(3)平和の日の制定

禁野火薬庫の爆発から15年後の昭和29年(1954年)3月1日、日本漁船第五福竜丸がビキニ環礁で、アメリカ軍が行った水爆実験に遭遇、乗組員が被ばくし、世界的なニュースとなりました。枚方市は、禁野火薬庫の爆発と第五福竜丸の被ばく事件の2つの出来事を風化させてはならないと、平成元年(1989年)、3月1日を「枚方市平和の日」と定めました。

枚方市の平和施策の詳細についてはこちら→https://www.city.hirakata.osaka.jp/0000003340.html(別ウインドウで開く)



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