枚方市内の石碑について
- [公開日:2024年9月3日]
- [更新日:2024年9月3日]
- ページ番号:50595
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楠葉牧(くずはのまき)とは?
淀川沿いに置かれた牧の一つ、「和名抄」にみえる葛葉郷の地を拠点として、成立・発展したと考えられるのが楠葉牧です。「小右記」永観2年(984年)11月23日条に「楠葉御牧司」とみえるのが初見で、「御牧」とは朝廷の牧場の事を意味します。その後摂関家の氏長者(うじのちょうじゃ)が代々受け継ぐ「殿下渡領(でんかのわたしりょう)」となりました。鎌倉時代になると、鎌倉幕府の執権北条氏の得宗領(とくそうりょう)となり、室町時代には一時細川顕氏(あきうじ)の所有となりましたが、二代将軍義詮(よしあきら)から正平5年(1350年)12月に石清水八幡宮に寄進されました。このように、楠葉牧は常に「時の人」が支配する重要なものでした。
楠葉は土器の産地としても有名でした。交野郡の土が天平6年(734年)には興福寺西金堂造営の際、法要に使う土器の材料として運ばれ、大同3年(808年)には供御(くご)の器を造るため、雄徳山(男山)での埋葬を禁ずる禁令が出されました。「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」には「楠葉の御牧の土器作り、土器は造れど娘の貌(かお)ぞよき」と記され、「堤中納言物語」には「葛葉の御牧につくるなる河内鍋」とあり、楠葉産の土鍋は河内鍋と称され、河内の特産品でした。
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歴史の道(れきしのみち)とは?
東高野街道は京都と高野山を結ぶ道で、平安時代の終わり頃から高野聖の活躍により高野山参詣が盛んになり、多くの人が行き交う道となりました。淀川沿いに京街道が整備されるまで、山城と河内を結ぶ重要な陸路でした。
本市域では洞ヶ峠から出屋敷を経て茄子作の東を通ります。そこからは生駒西麓を南下、河内長野で大坂・堺から南下してきた西高野街道と合流し、紀見峠に至る河内国を縦断する道でした。
東高野街道は古代からの幹線道路であり、沿道周辺の村落、楠葉・出屋敷・大峰・藤田などには弘法大使にまつわる伝説や伝承地が残っています。
その道筋の大部分は現在の幹線道路と重なっているため、旧道の歴史的な佇まいを残すところは多くありませんが、本市域では出屋敷と茄子作の本尊掛松の付近に、その面影を窺うことができます。
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枚方里(ひらかたのり)とは?
「枚方ゆ笛吹き上る近江のや毛野の若子い笛吹き上る」
毛野は、近江を本拠としたと考えられる継体期(6世紀前半)の武将です。
継体天皇21年(527)、新羅の圧迫を受けた朝鮮半島南部の加耶諸国からの援軍要請を受け、毛野が派遣されます。この時、九州北部で勢力を誇っていた筑紫国造磐井が、新羅と結んで毛野の軍政の渡航を妨害(磐井の乱)しましたが、翌年、物部麁鹿火によって磐井の乱は鎮圧され、毛野は海を渡ります。しかし、彼の地で毛野は成果を上げることができず、同24年、召喚される途中の対馬で病死しました。
船に乗せられた亡骸が、その子どもたちに伴われ近江に向かって淀川をさかのぼります。知らせを聞いて近江から迎えに来た毛野の妻は、枚方あたりで葬送の笛を奏でる船に出会い、悲嘆にくれて冒頭の歌を詠みました。
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枚方市役所 観光にぎわい部 観光交流課 (直通)
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