広報ひらかた

今を生きるヒント南極にあり

 令和4年の新春市長対談は、枚方で生まれ育ち南極観測隊の越冬隊長を務めた樋口和生さんを伏見市長が勤務先の国立極地研究所(東京都立川市)まで訪ね、さまざまな経験を経て南極を目指すに至った半生を通じて子どもたちをはじめ多くの人に共通する生き方のヒントを語っていただきました。

 問合せ先、広報プロモーション課 ☎︎841・1258、〃846・5341


枚方市長 伏見 隆

南極観測隊越冬隊長 樋口 和生さん

◆ひぐちかずお

 国立極地研究所南極観測センター設営業務担当マネージャー。北海道大学農学部卒業後、山岳ガイドを経て、第50次・第52次越冬隊に野外観測支援(フィールドアシスタント)隊員として参加。第57次で南極地域観測隊副隊長兼越冬隊長に。今年11月に出発予定の第64次南極地域観測隊副隊長兼越冬隊長を務める。 枚方出身。59歳。


山のスペシャリスト
50歳で極地研に就職

本田

 本日はよろしくお願いします。いきなり南極の越冬隊長と言われてもピンとこないと思うので、まずは樋口さんのことを教えてもらえますか?


樋口

 枚方で生まれ山之上小学校、第四中学校を卒業して交野高校へ。大学で山登りに夢中になって休学したこともあり、キャンパスライフを7年楽しみました。卒業後はNGOのメンバーとしてネパールに行き、村人と土木作業をしながら小型水力発電を設置したり、社会人教育の会社に勤めたりしました。そのあと自然学校やNPOを作って16年間山岳ガイドを…。登山は仕事や趣味で仲間と北海道や海外へよく行きました。ネパールには25回行きましたね。


市長

 山のスペシャリストなんですね。南極へはどうして行こうと思ったのですか?


樋口

 山岳部の先輩に南極観測に関わっている人がたくさんいて、わりと身近だったんです。南極観測隊の公募に応募して、45歳で生まれて初めての面接を経験しました。その後2回目となる52次隊から帰った4月から極地研の職員になりまして。50歳で就職です。


市長

 好きなことをして生きてこられたのですね。家族や周囲から就職のプレッシャーはなかったですか?


樋口

 ええ特には。観測隊に応募したのも、山の知識やガイドの経験が同行する研究者のサポートに役立つだろうと思ったからです。


本田

 観測隊には医師や料理人、研究者などいろんな職種の人がいますが全員が極地に慣れているわけではないので、樋口さんの経験や知識が生かされるわけですね。


実は人見知り
サポートが性に合っている

樋口

 山岳ガイドの頃から人と自然を橋渡しする意識でやっていました。観測隊ではリーダーシップが必要なときもありますが、どちらかというと人をサポートするのが性に合っています。


市長

 南極には1年以上滞在するんですよね?行ってみてどうでしたか?


樋口

 これまで3回越冬しましたが、最初は長い時間の使い方が分からなくて。半年くらい経つと先が見えてイメージ通りの仕事がやりきれそうにないと気が付くんです。もう一回来て仕事を完結させたいと昭和基地の滞在中に52次隊に応募して、帰国した8カ月後にはまた昭和基地にいました。2回目は思い描いていた仕事がかなりできるようになりました。


市長

 時間の使い方が分かるようになったんですね。3回目は隊長として行かれたわけですが意識したことはありましたか?


樋口

 隊員全員を家族のもとへ無事に帰すことが最大のミッションでした。リーダーとして至らないところだらけで隊員から叱られることもありました。30人で一緒にいたら多少のいさかいはあるし、うまく収められないときもありましたが、超えてはいけない一線を常に考え言葉を選んで伝えるよう心掛けました。それがきつくて帰国するとしばらく抜けがらのようでしたね。


市長

 環境が厳しい極地でたくさんの人をまとめるという役割は、我々の想像を超える苦労があるのでしょうね。次はこの秋(11月)出発とお聞きしました。


樋口

 「またしんどい世界に行くのか」と正直ためらいましたけどね。


市長

 背中を押したのは何だったのでしょう?


樋口

 南極行きが決まったことで自分が立ち上げた野外活動のNPOを離れることになったとき、若いメンバーに「1年半団体を預かってくれないか?」とお願いしたら「自信がない」と断られましてね。その話を友人にしたら「人からもらったせっかくの機会は受けるべきだったのにね。人生でそんなタイミングはなかなかない」と。その直後に隊長の打診があったので「しんどいけどこれは受けた方がいいかな」と思いまして。


市長

 不思議なタイミングですね。今回の抱負はなんですか?

樋口

 昭和基地の更新計画を立ててきたので現場の視点から見つめ直そうと思っています。次の責任者にフィードバックできるように。


市長

 前回の経験を生かすチャンスですね。


樋口

 私、すごい人見知りなんですよ。なのでもう少し隊員一人一人への声掛けを意識していこうかなと。


市長

 樋口さんの考えるリーダーシップとは何でしょうか?


樋口

 隊員が自分のペースで好きなことをできているのが一番幸せな状態だと考えています。そういう環境を作れるようにアドバイスしたり、大けがのないよう目を配ったり。非常時になってからでは遅いので、普段から事例研究を通してあらかじめ声掛けしていければ。


本田

 いかに普段からさりげなく「普段通り」をマネジメントしていけるか。それは行政運営にも共通点 があると思いますがいかがですか?


市長

 そうですね。樋口さんはみんなを守る仕事で自分らしく生きることができているんですね。自分の仕事が関わった人の幸せにつながるのはすてきなことですね。


本田

 市長も観測隊の隊長も、仕事の目的ややり方に共通点があるのでしょうね。関わってきた人たちの幸せが連鎖していくことが重要な気がします。


樋口

 南極に関わって強く思ったのは一人ではなにもできないということ。観測隊メンバーの役割や経験は それぞれ違うので、支え合わないと何もできません。協力関係を築く大切さを学びましたね。


 樋口さんは山岳ガイドの経験を生かし、設営部門の野外観測支援隊員として隊員の安全を守ってきました。設営部門は、昭和基地の建物や設備、機械、車両などを通じて、研究者の観測を支えています。2度目の越冬隊長として今年11月に出発する第64次隊では過去の気候変動メカニズムなどを解明するため、南極氷床の掘削プロジェクトが本格稼働します。越冬隊長として「全員が無事に家族のもとに帰ること」を最大のミッションに隊全体を統括します。


ステイホーム
今の環境をいかに楽しむか

本田

 パンデミックは私たちの生活のあり方に一石を投じました。「ステイホーム」はその象徴と言えますが、基地から外に出ても何もない凍った大地が広がるだけの南極生活はステイホームに通じるところがあります。何か私たちでも参考にできるような点はありますか?


樋口

 参考になるかどうか分かりませんが、単調な生活になりがちなので、誕生日会をしたり、氷の上でソフトボールをしたり楽しんでいます。


市長

 ソフトボールをするんですか!グローブはどんなものを?


樋口

 冬山登山用の手袋でね。


市長

 それは驚きました。日常に何か刺激が必要ですよね。


樋口

 日本の夏至の時期(6月)が昭和基地では冬至で、外はずっと真っ暗なんですよ。バイオリズムが狂うその時期は南極中の基地で「ミッドウィンターフェスティバル」というお祭りをやるんです。グリーティングカードを他国の基地とメールで交換して「うちではこんな豪華ディナーを用意したから来て」といった呼び掛け合いもして。実際は近い所でも1000㎞も離れているから行けないんですけどね。


市長

 それは面白い。他国とそんな交流があるのですね。


樋口

 大人の文化祭みたいなものです。屋台を出してお好み焼きをやったりゲームをしたり。その間も仕事で抜ける人はいますが。初めての南極では気持ちが落ちていたのですが、2回目は気持ちを奮い立たせ積極的に関わることで、モチベーションを保つことができた気がします。


市長

 自発的な行動を心掛けたわけですね。


樋口

 はい。その方が結果的に良い過ごし方ができると思います。部屋にこもっていると気持ちは沈んでいくだけなので。


市長

 ステイホームとつながりますね。オンライン飲み会もそうですが、誕生日に限らず季節の行事などをきっかけに他人とコミュニケーションをとることは年齢に関係なくできますね。


樋口

 我々の場合はそういう環境に自分の意思で行くわけですから、ポジティブな人が多い印象です。今の状況をいかに楽しむか。与えられた環境を恨んでも仕方ないですし。


市長

 毎日は難しくても任務以外で自分が動く理由を作ることが、コロナ禍に限らず自分らしく前向きに過ごすために大切ですね。


▲樋口さんが越冬隊長を務めた第57次隊が他国に送ったグリーティングカード。


やりたいことは
分からなくて当たり前

市長

 枚方市では毎年、成人式「はたちのつどい」を開催しています。中学校ごとの分散開催で、会場では私のビデオメッセージが流れます。将来を担う若者の心にはどんな言葉が響くのか悩んでいましてね。20歳の頃は人生でやりたいことがなかなか分からないと思うんですよ。必ずしも就職しないといけないわけでもないですし。一生懸命取り組むうちに何かに関心が出てきたり、自分っていう人間が見えてきたりするもの。新成人にはとにかく目の前のことを一生懸命やってみることが大事であると伝えたいと思っています。


樋口

 やりたいことと言われてもなかなか見つからないですよね。人から教わるものでもないですし。


市長

 私も元々は東京の商社の営業マンでしたが、仕事を続ける中で自分が生まれ育ったまちを良くしたいという思いが募り、35歳のときに全く知らない政治の世界へ飛び込みました。今は幸せに生活する市民の笑顔を見ることを目標に、山頂まで登っていくと素晴らしい景色が広がっているはずと、山道を一生懸命登っています。


樋口

 山登りで言いますと、仲間と相談して計画を練る準備段階も面白いですよ。予定通り登ることができれば万歳ですし、天候の影響で計画通りにいかず途中下山したら悔しくて「また行ってやる」と思いますし。準備して、降りてきて、振り返って…。次に生かすための過程はすごく楽しい。


市長

 なるほど。自分の予想がどうなるかとか、立てた計画が突然起こった変化にどう対応するかとか、過程の一つ一つも満足度や次につながるんですね。


樋口

 山岳ガイドのときは安全最優先で計画していました。お客さんと道中で世間話をしながらも「この急斜面の道からもし滑り落ちたら今日は晴れてるからヘリが助けに来ることができる」など頭のどこかでは常に最悪の事態を想定していました。危機管理も繰り返すと自然にできるようになりました。何事もなく下山して「ありがとう」と喜ばれると「少しは人の役に立てたかな」とホッとしましたね。


本田

 人見知りとおっしゃっていますが、実は人と関わるのが好きなんですね。


樋口

 そうですね。若い時はそう思っていませんでしたが、気付いたのはガイドの仕事をしてからですね。


市長

 山登りの醍醐味は、決して山頂を目指すことだけではないのですね。さまざまな経験を経てきた樋口さんの「生き方」と重なりますね。


 極地研の敷地にあるカラフト犬15頭のブロンズ像。第1次観測隊の移動手段であった犬ぞりの先導として活躍しました。第1次越冬隊の引き揚げのとき、ひどい悪天候に襲われやむなく南極へ残され生存が絶望視されたましたが、1年後、2頭の犬「タロ」と「ジロ」の奇跡の生存が確認され、日本中に感動をもたらしました。


▲展示された隕石の説明を受ける伏見市長。南極では隕石が世界で最も多く見つかっており、貴重な資料となっています。

深刻にならず真剣に

本田

 私を含めてここにいる3人全員が枚方出身であるわけですが、地元ではどんな時間を過ごしましたか?思い出をお聞かせください。


樋口

 近所の雑木林で秘密基地を作ったり、天野川の河原で亀にちょっかいを出したりしていました。


市長

 当時の枚方市民病院の近くにあった崖を段ボールで滑ったり、虫取りしたりしたことをよく覚えています。少し危ない場所だったかも。


本田

 周りの大人からたしなめられつつも見守られ積み重ねる、そんな景色や経験が「地元のイメージ」として残るんですね。今の枚方で育つ子どもは、どんな枚方の風景や経験を刻み込んでいるのでしょうか。


市長

 子どもの時の経験や記憶は大人になっても残りますよね。感受性が強いから反応がいいし、小さい子が飛び跳ねる姿はすごくうれしくなります。大人が経験する機会をいっぱい用意して好奇心のきっかけを引き出してあげたいですね。


樋口

 そうですね。以前、子どもの登山教室で知床の原生林に入っていたときは、大人になって人生の壁にぶつかったとき、この原風景が気持ちを和ませるきっかけになればいいなと思っていました。


市長

 自分の将来を決める力は、子どもの頃に自分で行動や考えをどれだけ決めてきたのかで大きく変わってくると思っています。枚方の子どもにはもっと自由に遊ぶ時間を持たせてあげたいと思っていて、来年度から全ての小学校の校庭を放課後に自由に遊べる場所として開放する予定です。やりたいことを自分でアレンジする力を付けるのは大切なことで、全部おぜん立てされると発想力が鈍ってしまうのではという心配があります。


本田

 夢を育み、好きなことを伸ばしていく上で大事な観点ですね。最後にふるさとへ向けたメッセージをいただけますか?


樋口

 南極に行く仕事ってたまたま目立ちますが、本当は一人一人の仕事がそれぞれかけがえのないものなんですよ。自分を人並みだとか特別だとか、周りと比べる必要はないと思います。勉強でも遊びでも目の前のことを一生懸命やっていたら何か先が見えてくるんじゃないかな。真剣にはなった方がいいけど、あまり深刻にはならず、うまくいかなければまた変えればいいくらいの気持ちで毎日を楽しく過ごしてほしいです。


本田

 大学で畜産を学んで山岳ガイドから南極へ行くなんて、一見つながらないですもんね。


樋口

 ええ。でも自分の中ではつながっているものなんですよね。


市長

 目の前のことに一つ一つ向き合ってきた結果ですね。今日は南極での仕事を通して多くの人に共通する生き方のヒントをお話しいただきました。ありがとうございました。


樋口

 ありがとうございました。次の観測隊ではひこぼしくんもぜひ一緒にどうですか?


市長

 隊長の推薦でぜひ、メンバーに入れてください(笑)


◀オーロラ帯の真下にある昭和基地は、オーロラ観測の絶好の場所にあります。


COLUMN.1 南極と観測隊

面積は日本の37倍
地球で最も寒い大陸

 地球の最も南に位置する南極大陸は、面積が約1400万㎢(日本の約37倍)もある世界で5番目に大きな大陸です。地表のほとんどは数万年かけて降り積もった雪からなる氷の層で覆われ、厚さは場所によって4000m以上にも。内陸部は地球上で一番寒く、昭和58年には観測史上世界最低気温の-89.2℃を記録しました。

(提供:国立極地研究所)

どの国の領土でもない
31カ国が環境問題の基礎情報を調査

 南極大陸は、南極条約によってどの国の領土でもないと定められています。現在は世界31カ国が科学的な調査観測を行う基地を設置し、日本も昭和基地などの拠点があります。日本の南極観測は昭和31年以来60年以上、国の事業として多くの省庁が関わっています。隊員の職種は環境や気象、地学などの研究者だけでなく設備や調理・医療・建築・車両などさまざま。南極の夏季のみ活動する夏隊約60人と、翌年まで越冬する越冬隊約30人で構成されます。人間の活動がほとんど行われていない南極は、地球環境を正確にモニターできる貴重な場所。地球が抱えるさまざまな環境問題の最も基礎となる情報を正確に集め、地球環境の監視を進めています。

▶日本の南極観測の最前線「昭和基地」

(提供:国立極地研究所)


COLUMN.2 新型コロナの影響

コロナ禍で燃料補給できず
活動規模を縮小

 世界中で続くコロナ禍の影響は南極観測にも。令和2年秋に南極へ向かった第62次観測隊は、空路でオーストラリアへ移動し、燃料給油を終えた南極観測船「しらせ」に乗船するはずでした。しかし世界規模の感染拡大のため、日本から南極まで無寄港・無給油で船で直行することに。南極海での観測も縮小せざるを得ず、夏隊の人数を半分以下の13人に絞り、南極での滞在期間も2カ月程度から30日に。予定していた観測に支障をきたす場面もあったようですが、昭和基地での越冬観測は継続させることができました。

◀南極観測船「しらせ」


対談の進行役は…

本田隆行さん(39歳)

◆ほんだたかゆき
 科学コミュニケーター。大学院時代には探査機「はやぶさ」ミッションに関わり、卒業後は枚方市役所、日本科学未来館を経て独立。執筆、解説、講師、科学監修など幅広く活躍。令和3年には極地研の一般公開「極地研探検」で総合司会を担当。枚方出身、在住。

対談会場は…

国立極地研究所 南極・北極科学館(略称:極地研)

東京都立川市緑町10―3 ホームページhttps://www.nipr.ac.jp/

 平成22年開館。昭和44年に南極点までの往復5200㎞を走破した雪上車や隕石などの地球外物質、オーロラシアターなど南極・北極の研究成果が展示されている。入場無料(現在はオンラインによる予約制)。