広報ひらかた

枚方に古代都市!百済寺跡の謎に迫る

動画は市公式YouTubeからご覧ください!

広報プロモーション課 本田 美幸:市長、どうしてサングラスなんですか?

枚方市長 伏見 隆:文化財を見て歩くときはいつもこれなんですよ。

文化財課 井戸 竜太:もしかしてあのテレビ番組意識してません?

 今から約1250年前、枚方の地に平城京のような碁盤の目をした古代都市があったことをご存知ですか?今回の特集では文化財課職員の案内で伏見隆市長が某人気テレビ番組風に、中宮・禁野をぶら歩き。近年の発掘調査で明らかになってきた「百済寺跡」と「禁野本町遺跡」の謎に迫ります。

宮之阪駅から東に徒歩約10分

問い合わせ文化財課
電話841-1411、 ファクス841-1278


鍵を握るのは中宮に移り住んだ王族の末えい

国が滅び帰れなくなった百済王一族の子孫

 百済王氏とは、7世紀後半に滅んだ朝鮮半島の国「百済」の王族の末えいです。国が滅んだあと帰れなくなった王子・禅広らを祖先とする一族で、朝廷に仕え難波(大阪市東住吉区・生野区付近)に住んでいました。8世紀後半に枚方の中宮付近に移り住んだと考えられています。

奈良の大仏建立で黄金を献上し大出世

 陸奥国(宮城・福島県など)で国司を務めていた百済王敬福は東大寺の大仏建立用に、黄金900両を聖武天皇に献上。喜んだ天皇は敬福を7階級特進させました。枚方・交野周辺も治める河内守になった敬福はなぜ河内の北部にあ る枚方に移住したのでしょう。古代史と繋がる歴史の秘密がありそうです。

2度の遷都を行った桓武天皇と深いつながり

 敬福の活躍で名声を上げた百済王氏。その後も敬福の孫の明信が桓武天皇の側近である女官長となるなど上級官人を多数輩出。桓武天皇は母親が百済系氏族の「和やまとし氏」出身だったこともあり、「百済王 らは朕ちんの外戚」と言うほど信頼を寄せていました。文献には桓武天皇がたびたび枚方がある交野郡で鷹狩りや天神を祭る儀式を行った記録が残されています。

枚方市長 伏見 隆:百済寺跡といえば、大阪府初の 特別史跡。本田さん、百済寺を建てた百済王氏は知っていますか?

広報プロモーション課 本田 美幸:確か奈良時代後半に枚方に移り住んだと言うことは知っています。でも、それ以上の ことはあんまり…。一体どんな人たちだったんでしょう?

文化財課 井戸 竜太:当時、国内で最上級の氏族だったんです!

井戸 竜太 プロフィル:
 東京都出身。日本史の謎を解明しようと奈良の大学で考古学を学ぶ中で枚方の文化財的価値に注目。平成28年、枚方市に入職した。「文化財調査は市民の皆さんの協力が あってこそ。成果を分かりやすく多くの人に伝えたい」と熱く語る。


百済寺跡はなんと!国宝級

薬師寺と同じ2塔1金堂だった

 百済寺跡の調査が始まったのは昭和7年。現在までに本格的な発掘調査が3回行われ、その姿が少しずつ明らかになってきました。伽藍配置は薬師寺や東大寺と同じ2塔1金堂式で、基壇の石組みなど当時最先端の技術が使われており、官寺に匹敵る格の高さをうかがい知ることができます。

百済寺跡は昭和42年、日本で初めて史跡公園に。現在、令和5年度の完成を目指して再整備を進めています。東塔は当時の基壇を再現する一方、西塔は礎石をそのまま残すことで往時をしのばせる工夫が凝らされています。

文化財課 井戸 竜太:実は北門から道が延び、まちが広がっていたんです!その痕跡が常翔啓光学園に残っています!

常翔啓光学園から北西に約160メートル

西南院があった百済王神社から西を見ると崖に。交野台地の隆起で大きく発達した河岸段丘で「交通の要でもあった淀川が一望できた」と井戸さん。

塔を支える基壇には生駒山系の石が使われていたようです。礎石の大きさや位置から高さ約25メートルの三重の塔だったと考えられています。

西塔側に残る約1250年前の礎石

文化財課 井戸 竜太:特別史跡といってもピンと来ないと思いますが、遺跡の中の「国宝」に当たるんです。これが枚方にあるってスゴいことなんですよ!建設当時の礎石に触れてみましょう!

枚方市長 伏見 隆:これが塔の柱を支えていたんですね〜。

広報プロモーション課 本田 美幸:古代にタイムスリップしてしまいそうです。


校舎の下に眠る遺構が教室に

常翔啓光学園中学校・高等学校 ミューズ ギャラリー(禁野本町1)

住居の柱

8世紀後半ごろこの場所に建っていた「掘ほったてばしらたてもの立柱建物」と呼ばれる住居の柱跡をタイルで再現。柱跡を結ぶと2間×4間(約4.8m×7.8m)になり大きな建 物があったことが分かります。

掘ほりかた形:柱を立てるために掘られた四角形の穴

柱の間隔は2m

井 戸

直径約1.5m、深さは推定5m以上の井戸が発掘。生活用水として使用していたと考えられています。丘の上で水脈を当て、大きな井戸を作ることができるのは高度な土木技術や知識を持っていた証と言えます。

壁の向こうまでぐるりと描かれた円は井戸の縁を示しています

枚方市長 伏見 隆:大きいですね〜!

歴史を語り継ぐのは教育機関の責務

校内に遺跡が見つかったのは9年前、新校舎の建設現場でした。遺跡は発掘調査が終わると埋めてしまうため、教育機関の責務として「地域の歴史を語り継がなければいけない」と思い、遺跡があった場所がわかるように新校舎にデザイン化しました。学校の住所でもある「禁野」の由来は、かつてこの辺りには天皇の狩猟場があり一般の民の狩りが禁じられたためと言われています。この地の歴史を「教科書の中で起こったこと」ではなく、とても身近なものとして生徒たちに感じてもらいたいですね。
常翔啓光学園中学校・高等学校 吉村仁志 校長先生

ミューズギャラリー:発掘調査で出土した土器を展示。

百済王氏による計画的なまちづくり

 常翔啓光学園中学校・高等学校の調査は平成21年・28年の2回実施しました。50㎝~80㎝の地下に奈良時代の地面が埋まっていて、掘立柱建物や井戸、溝の跡など宅地の跡を発見。これらは百済寺やそこから延びる道とほぼ同じ方位をとっており、百済王氏が計画的にまちづくり を行ったものと考えています。それを裏付ける遺跡がさらに他の場所で見つかっているんです。次はそこへ!

ミューズギャラリーにあるパネルを前に説明する井戸さん。

ミューズギャラリー建設現場の発掘調査(平成28年)


まるで平城京!碁盤の目のまちが眠っている

禁野本町遺跡

百済寺跡から北に広がる奈良時代~平安時代中期の遺跡。これまで230回に渡る数多くの発掘調査を行い、各所で建物や井戸、道路などの跡が多く見つかっています。街区と百済寺の方位などの共通性の高さから、百済寺を基点に平城京のような方形街区(碁盤の目のように敷かれた道路で形づくられたまち)が形成されて たのではないかと考えられています。

禁野本町遺跡公園:掘立柱建物の柱や井戸のあった場所が再現されています。

平安京小路に匹敵する幅12mの道路

1辺がそれぞれ1町(約110m)

東西約450メートル

南北約900メートル

枚方市長 伏見 隆:百済寺との関わりが深く、一体的に考える必要がありますね。

広報プロモーション課 本田 美幸:「これが百済王氏らによる古代都市なんですね!


古代都市を考える4つの手掛かり

手掛かり1:十字路の先に百済寺北門

 平成13年~14年、中宮北町の住宅開発に伴う発掘調査で東西南北に走る幅約6mの十字路(地図上の★印)を発見。南側をまっすぐ延ばすと百済寺北門と直結し、長さは古代の土地区画の単位「町(約110m)」のちょうど5倍に。「都のような碁盤の目のまちがあったのでは?」と本格的な調査が始まるきっかけになりました。

住宅街に古代の十字路が!

手掛かり2:建物・道路が同じ向き

 十字路跡の発見後、想定する方形街区を裏付けるような道路や建物の跡が見つかっています。平成22年~23年の市立ひらかた病院(旧枚方市 民病院)建て替えに伴う発掘調査では、4700㎡にも及ぶ宅地跡から約70棟もの掘立柱建物跡を発見(写真)。そのほとんどが街区の方位と同じ向きをとっていました。

奈良時代の終わりから約200年間まちが続いていました。

手掛かり3:正倉院の宝物と同じ! 奈良三彩の壺

 「三彩」とは唐で盛んに作られた高級焼物のこと。日本では釉ゆうやく薬が美しい「奈良三彩」が有名で、昭和61年に保健センター建設用地で発見されました。東大寺の正倉院に残った奈良三彩の壺に類品が見られます。百済寺がこうした有力寺院と肩を並べる存在であったことを物語っています。

この壺は今なら輝きプラザ2階で見ることができます!(第4火曜 休所)

手掛かり4:桓武朝廷とつながり?木簡も出土

 十字路を発見した場所の近くでは文字が書かれた木の札「木簡」とその削りくずが見つかりました。真ん中の木簡には律令体制下で郡司の長官を意味する「大領」の字が。貴族や役人の邸宅であった可能性が高いですが、自立的に字 を覚えた人々が早くから多くなる日本の国の特色を示しているのか、興味が尽きません。

出土した木簡


古代の謎に切り込む「鍵」きっと枚方に

文化財課 井戸 竜太:桓武天皇は、奈良にあった都(平城京)を長岡京、そして平安京へと北の山城に移し、時代を大きく転換させました。天皇とかかわりが深い百済王氏が造った百済寺や禁野本町遺跡はその大きな歴史の画期と関係が深いようです。古代史は謎が多い。そこに切り込む「鍵」は 枚方にも数多くあります。調査 を続け、古代の扉を一つ一つ開いていきます。

広報プロモーション課 本田 美幸:「古代都市」の謎が全て とける日が楽しみですね!

枚方市長 伏見 隆:百済寺を中心に、当時の日本で都くらいしか例のない最先端の都市整備がなされていたんですね。感動しました。これほどの壮大な歴史が私たちの足元に眠っていることを市民の皆さんに 伝えていかなければ。本田さん、PRよろしくお願いしますね。

広報プロモーション課 本田 美幸:はい、頑張ります!