広報ひらかた

ブラタカシ第3弾

文化財を市長が巡る
ブラタカシ

動画は市公式YouTubeからご覧ください!第1弾(古代都市編)、第2弾(寺内町編)もこちらから


宿場町・枚方は地下に眠る?!

枚方市長
伏見 タカシ

宿場町編、念願だったんです


広報プロモーション課
大井 葉月

街を見る目が変わりますね~!


文化財課
井戸 竜太(いどりょうた)

今回は枚方宿に関わる痕跡を案内します!


枚方宿発展の礎、その知られざる歴史をひもとく

戦国時代、天下統一を目指した織田信長・豊臣秀吉・徳川家康。天下人とも称される彼らの影響力は、実は枚方の発展にも大きく関わっていました。伏見タカシ市長が文化財課職員を案内人に市内の文化財を巡りながら、某テレビ番組風にぶら歩く「ブラタカシ」第3弾。戦国時代の軍事戦略的な拠点から、近世都市・枚方宿へ。現在の枚方市駅周辺の発展につながる歴史をひもときます!

 問合わせ先、文化財課 電話841-1411、ファクス841-1278

案内人
文化財課 井戸 竜太(いどりょうた)

【プロフィル】東京都出身。日本史の謎を解明しようと奈良の大学で考古学を学ぶ中で枚方の文化財的価値に注目。平成28年、枚方市に入職した。「近世の歴史の中でも、枚方がいかに重要な場所として名だたる人物に注目されていたかをぜひ知ってほしい」と熱く語る。


痕跡1
戦国時代、豊臣秀吉が目を付けた枚方

秀吉は枚方で休んでいた?!

 枚方宿ができる前の戦国時代、現在の三矢町周辺の丘の上には、御茶屋御殿という立派な休憩所がありました(左絵図)。江戸時代の記録から、御殿は豊臣秀吉が建てたことが分かっており、秀吉自身も利用していたようです。なぜ秀吉は、御殿を枚方に建てたのでしょうか。


伏見城と大坂城
2つの本拠地間の拠点

 天下統一を果たした秀吉は、大坂城を本拠地とします。その後京都に伏見城を建て、大坂~伏見間の交通インフラの整備に取り掛かります(下図黄線参考)。枚方から大坂にかけては、堤防と街道を兼ねた文禄堤を造り、淀川の水運と共に陸路も整備しました。御茶屋御殿はそれらの道中の拠点をつくる目的で建てられたと考えられています。大坂と京都の中間に位置し、高い丘陵地形がある枚方は、大坂を守るにも攻めるにも重要な土地だと、天下人は見抜いていたのでしょう。

豊臣秀吉

河内鑑名所記(1679年)
御茶屋御殿
引用:三田章編『上方藝文叢刊3 河内鑑名所記』
  (上方藝文叢刊刊行会、1980年)


御茶屋御殿跡展望広場

広場からは大阪や京都を一望できます

200年以上前の絵なのに、道の形が今と似ているね!

安居川
東海道
枚方宿本陣(現在の三矢公園)
浄念寺
淀川
現在の御茶屋御殿跡展望広場付近

引用:児玉幸多監修『東海道分間延絵図 第24巻 枚方・守口・大坂絵図編』
  (東京美術 1977年)に加筆(原本は東京国立博物館、1806年)


織田信長も枚方の価値を見抜いていた

 枚方の地理的条件が、政治・軍事・経済政策に価値があると信長も目を付けていました。大坂の石山本願寺を総攻めした信長の軍団は、高槻方面から枚方へ淀川を渡り、そこから東高野街道を南下して天王寺などに陣を構え、石山包囲網を作りました(左図緑線参考)。信長の権力や体制を継承した秀吉は、こうした信長の考えを参考にしていたと思われます。


天下人と枚方の関わり

緑:信長が石山本願寺を攻めた際の推定ルート
黄:秀吉が整備した文禄堤を含む街道
赤:家康が大坂の陣で大坂城を攻めた際の推定ルート

次は徳川の時代の痕跡を探しに、三矢公園に行きましょう!

信長ルート
家康ルート
街道

引用: 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』
   (吉川弘文館、2007 年)をトレース・加筆


痕跡2 徳川の時代に枚方が果たした役割

 枚方の地理的条件が、政治・軍事・経済政策に価値があると信長も目を付けていました。大坂の石山本願寺を総攻めした信長の軍団は、高槻方面から枚方へ淀川を渡り、そこから東高野街道を南下して天王寺などに陣を構え、石山包囲網を作りました(左図緑線参考)。信長の権力や体制を継承した秀吉は、こうした信長の考えを参考にしていたと思われます。


御茶屋御殿跡展望広場から三矢公園へ


家康の構想で置かれた「枚方宿」

 天下人の先輩である信長・秀吉と同じ視点から、徳川家康も大坂の陣の際に枚方の地を戦略拠点として十分に活用します(4ページ図赤線参考)。大坂の陣に勝利し天下を平定した徳川幕府は、江戸を中心とした交通体系の最重要路線として大坂までの東海道を整備します。秀吉が整備した交通インフラを東海道の延長部に組み込み、江戸の品川から数えて56番目の宿場町として「枚方宿」を設置しました。

参勤交代で進んだ都市化

 東海道の57宿が整備された寛永年間(1624年~1644年)頃には、大名家の参勤交代が制度化されます。枚方宿には大名の宿所として本陣が置かれ(右絵図参照)、その付近に枚方浜という川港も整備され、参勤交代の大名行列を迎えました。西国大名の多くは枚方宿で泊まり、そこから東海道を上り江戸を目指します。枚方宿は、西国大名にとって江戸への最初のチェックポイントであったようです。訪れた武士などの数は、毛利家では数百人、紀州徳川家では宿場町の人口を上回る1500人以上にも及ぶ規模でした。参勤交代などを機に、枚方宿は地域社会を貨幣経済へ巻き込んでいき、枚方の都市的発展が始まります。

本陣跡を目指し東海道を歩く


東海道枚方宿本陣跡

伏見 タカシ

たくさんの武士が来ていたのなら、本陣は三矢公園より広かったのかな?

文化財課 井戸 竜太

そうなんです!実は、すぐ近くにヒントがあるんですよ!


痕跡3 江戸時代の枚方宿は地下に眠っている?!

現代に残る本陣の痕跡 手がかりは石垣

 幼児療育園跡地と、三矢公園裏手にある安居川(あんごがわ)ポンプ場では、護岸のために造られたと考えられる石垣を確認できます。この石垣は積み方などから明治時代に造られたものとみられていますが、整備された歴史をひもとくと、江戸時代、本陣の敷地の端が石垣の辺りだったことの手がかりとなります。


堤防の拡大とともに地下に埋もれた町

 江戸時代から明治時代にかけて、枚方宿は水害の際に堤防を積み上げて改修することを繰り返しました。それに伴い町家が建つ部分も広くなり発展していきますが、その過程で江戸時代の枚方宿の痕跡は、地下に埋もれた文化財(遺跡)となっていったのです(下図)。


枚方宿の本陣はどこに?

▲三矢公園横、幼児療育園跡地の敷地沿いで確認できる石垣


堤防と町家の変遷概念図(三矢村本陣付近)


市役所の間を川が流れている?

 現在の安居川は、枚方市役所の方からポンプ場の地下まで続いています。市役所別館の増築工事中の写真(左・昭和49年撮影)では、本館と別館の間に流れる安居川を確認できます。

広報プロモーション課
大井 葉月

いつも通っている道の下に川が流れているとは、驚きです!


安居川ポンプ場


文化財課
井戸 竜太(いどりょうた)

ここの地下にも安居川が流れていて、この石垣は川がそばにあったことを示しています!


淀川があったことで
人と物が集まった

 宿場町が淀川に面していたことは、水運による物流が盛んに行われる利点もありました。江戸時代、安居川と淀川の合流地点は枚方浜と呼ばれる船着き場で、船を検査する船番所、本陣、宿場町間の輸送業務を行う問屋も設けられ、水陸両方の交通の要衝として大きくにぎわいました。枚方宿の当時の様子は、鍵屋資料館でみることができます。


現在の三矢町周辺

淀川河川公園枚方地区
市立枚方宿鍵屋資料館
安居川ポンプ場
三矢公園
幼児療育園跡地
御茶屋御殿跡展望広場


痕跡4 枚方宿に残る江戸時代の宿・鍵屋

川底の陶磁器が示す 旅人の往来

 鍵屋は、今は江戸時代の史料を展示する資料館となっていますが、江戸時代は街道や船で淀川を行き交う旅人の宿屋でした。街道に面して店を開いており、裏側の石階段の下は淀川の船着き場となっていました(下絵図)。江戸時代も中期から後期頃には、京都や大坂、あるいは寺社詣の観光が大きく発展します。資料館には、鍵屋のほか、枚方宿での発掘調査で出土した九州の有田焼や京焼などの陶磁器、淀川の川底からもたくさん出土する「くらわんか茶碗」と呼ばれる波佐見(今の長崎県波佐見町)産の染付碗が展示されています。これらの質や量の豊かさは、枚方宿が大きく発展し、多くの旅人などでにぎわった姿を示しています。


市立枚方宿鍵屋資料館
学芸員 片山 正彦さん

枚方宿鍵屋資料館(堤町10-27)電話・ファクス843-5128
開館時間:午前9時30分~午後5時
休館日:毎週火曜ほか(祝日は開館・翌平日休館)
入館料:一般200円ほか

 当時の淀川は、鍵屋資料館のすぐそばまで来ており、人や荷物を運ぶ大型船・三十石船が停泊していたといわれています。鍵屋資料館は、そんな枚方宿の歴史を紹介する唯一の資料館です。館内では当時を再現したジオラマや、くらわんか舟の模型、「くらわんか」の名前の由来となった三十石船の乗客に飲食物を売りつける際の様子を再現した映像などを見ることができますよ。


立枚方宿鍵屋資料館

江戸時代は鍵屋のすぐそばを淀川が流れていたんですね!

江戸時代の淀川位置(推定)

▼淀川からみた江戸時代の枚方宿の様子。建物裏の石階段を下った先が船着き場であることが描かれています引用:『澱川両岸一覧』(枚方市所蔵1861年)

◀淀川側からみた鍵屋資料館。1階部分の石垣は、川の擁壁の役割として整備され、江戸時代にはもっと下の方まであったと推測されています


宿場町のにぎわいが現在の枚方市へ

井戸:今回は戦国時代から明治時代にかけて、枚方が発展してきた痕跡を見てきました。

市長:石垣がとても気になるね!個人的にまた見て回ろうかな。

井戸:明治時代以降は、商店などが多かった東側へ町の中心が移っていき、さらに拡大したのが、現在の枚方市駅周辺の発展の礎ということになります。

大井:市駅周辺のにぎわいは歴史的な成り立ちがあるんですね。

市長:歴史を学ぶと、気になることが増えて街への興味が湧いてきます。市民の皆さんもぜひ、これを機に枚方のことを調べて市の魅力を見つけてほしいですね。私たちはきっかけを与えられるよう、市の情報をもっと発信していきましょう!

井戸・大井:はい!

 枚方宿など市の魅力を体感できるツアーが完成!詳細は下記コード参照または市観光案内所Syuku56(電話896-7555)へお問い合わせを。