広報ひらかた

文化財を市長が巡るブラタカシ

寺内町編の動画は市公式
YouTubeからご覧ください!

枚方市長 伏見 タカシ:第2弾、すごく楽しみにしてたんです

文化財課 井戸 竜太:市長!今回もばっちり決まってますね!

観光にぎわい部 西本:今回のテーマも深いですよ


かつて枚方は宗教都市だった?!

枚方寺内町(ひらかたじないまち)の知られざる歴史に迫る

 寺内町とは…1400年~1500年代に浄土真宗などの境内に作られた自治都市。僧侶や門徒(商人や職人などの町衆)で構成され、居住区や町衆の蔵などエリアごとに整備されていた。


今の枚方の中心・枚方市駅周辺は、京街道の宿場町から発展してきました。この宿場町のすぐ近くの丘の上に、戦国時代の宗教都市=寺内町があったことをご存知ですか?伏見タカシ市長が文化財課職員を案内人に市内の文化財を巡りながら、某テレビ番組風にぶら歩く「ブラタカシ」第2弾。かつてここにはどんなまちがあったのか、知られざる歴史に迫ります!

 問合わせ先、営業料金課 文化財課 電話841-1411、ファクス841-1278


案内人:文化財課 井戸 竜太

【プロフィル】東京都出身。日本史の謎を解明しようと奈良の大学で考古学を学ぶ中で枚方の文化財的価値に注目。平成28年、枚方市に入職した。「寺内町は枚方市の礎(いしずえ)。文化財を通して歴史と今との繋がりを感じてもらいたい」と熱く語る。


手掛かり1
枚方寺内町の入り口は蔵谷の踏切(付近)

市長:地名は枚方元町なのに踏切に蔵谷と書かれているな。石碑には蓮如と谷御坊順興寺。順興寺というお寺って、この辺りにあったのかな?

井戸:市長、さっそくキーワードを見つけましたね!ここは枚方寺内町の入り口にあたるんですが、なぜ「蔵谷」と呼ばれるのか気になりませんか?実は蔵って寺内町を知る大きな手掛かりなんです。すぐ近くの大隆寺でとあるものが見つかっているので、行ってみましょう!

蓮如上人御旧跡
旧名 順興寺 谷御坊


蓮如

(1415年~1499年)

 浄土真宗本願寺派の第8世法主。京都の大谷本願寺で生まれ、戦国時代に北陸など全国に浄土真宗の教えを広げた。その勢力は大名をしのぐほど強力なものだったといわれる。 蓮如(1415年~1499年)


手掛かり2
入ってすぐの大隆寺(だいりゅうじ)で大発見

西田 敏秀

文化財課・発掘調査員。甕蔵跡の発見に携わった。

ここは私が解説します!

1 ▲大甕の容量は2石=360リットル!
2 ▲甕が据えられていた直径70cmもの穴が並ぶ。

大隆寺(だいりゅうじ)1575年に建てられた法華宗のお寺。


大きな甕が並ぶ
甕蔵が見つかった

 平成14年に大隆寺で行った枚方寺内町遺跡第14次調査で、大甕(写真1)が24個並んでいた甕蔵跡が発掘されました(写真2)。  甕蔵の様子や甕の設置状況から、油の商人「油屋」が使っていた蔵だったと考えられています。


蔵は信長との戦いで焼失?

 淀川の川港へと続くお寺の道の位置は当時のままで、甕蔵はお寺の北の奥に、店舗は駐車場のあたりにあったようです。1570年に始まる織田信長軍と浄土真宗門徒との戦い・石山合戦の初期の戦いで焼け落ちたと言われており、その後、油屋の跡地には信長の差し金で法華宗の大隆寺が建ちます。


西本:でも、どうしてここに油屋が…

井戸:実は、大隆寺があるこの一帯は商人が集まっていたんです!


当時の様子が分かる日記蓮如の子が残していた

 蓮如の子・実従(じつじゅう)という僧侶の日記「私心記(ししんき)」に、枚方寺内町の様子が記されています。 彼は1559年に当地に来て順興寺の住職となり、亡くなるまでの5年間をこの寺で過ごしました。私心記には油屋・味噌屋など商いをする住人たちの普段の様子がいきいきと書かれ、当時の文化や生活を知ることができます。


戦国時代に争っていたのは大名同士だけじゃない!

 発掘調査などにより、枚方寺内町が栄えていたのは戦国時代後期の1500年代半ば以降だと分かっています。戦国時代には、大名間の戦争のほか農民や門徒との戦争(一揆)もたくさん起こりました。石山合戦は鉄砲がたくさん使われた最大の戦争の1つです。

信長

寺内町では課税が免除!
町衆にとって一見メリット大

 寺内町の中は、お寺へお布施をする代わりに大名などへの税金が免除され、確かに一時的な経済活動は盛んになります。しかし、それをよく思わない大名や他の宗派の門徒との戦争を引き起こす原因にもなるため、蔵が並び、商人たちがたくさん住んで栄えた当寺内町も石山合戦に巻き込まれました。寺内町に居ることはいい面ばかりではなかったようです。

▲お堂には大隆寺住職作成の発掘調査成果がまとめられている(非公開)。


市長:なるほど。商人の蔵がたくさんあったから蔵谷なんですね

市長:蔵谷の謎はわかった。じゃあ、石碑に書いてあった順興寺はどこだ?

西本:ここが谷だとすれば、もしかして丘の上とか?

井戸:2人ともいいポイントに気付きましたね。坂を上って探してみましょう!

▲枚方元町から枚方上之町へ続く急な坂道を上る。


手掛かり3
谷から丘の頂上へ。そこにあったのは…空地?

順興寺が無い!

 私心記に「町衆が踊りによって地面を固めた」と記録があり、この人工的に整備された平地が「順興寺推定地」です。


枚方を拠点とした理由

 当時の浄土真宗最大の拠点・石山本願寺と京都の中間地点に位置し、通運の要だった淀川沿いにあったことに尽きます。丘からは京都や大阪が一望できます。


信長との戦いで一時衰退

 石山合戦の一舞台ともなった当寺内町は戦争の影響で一時衰退しますが、豊臣秀吉が港を持つ交通の要衝として目を付け、京街道を整備しました。そしてこの地に枚方宿ができ、江戸時代から明治まで淀川水運と京街道(東海道)の宿場町として大きくにぎわうことになります。

井戸:寺内町衰退まで歴史を辿りましたが、まだ終わりませんよ!

順興寺推定地上空からの景色(京都方面を望む)


辿った手掛かりをまとめると、枚方寺内町とは…

どんなまちだったのか

順興寺を中心に、商売人たちの活気であふれていた

<戦国時代後期の枚方寺内町 復元イメージ図>


なぜ枚方にあったのか

大坂と京都の中間地点で当時の流通の要・淀川沿いにあったから

市長:当時は堤防が無かったんですね!

井戸:左の写真は、かつて枚方寺内町が広がっていた枚方元町・枚方上之町の現在の様子です。住宅街になっていますが、蔵谷から順興寺推定地まで続く道などは当時から変わっていないんですよ。


順興寺推定地
大隆寺
蔵谷の踏切

 浄土真宗の拠点であった当寺内町に、法華宗本興寺の末寺である大隆寺が建てられます。これは信長の後ろ盾によるものですが、単に町の監視などではなく、この町が持っていた経済力を自陣に取り込むことが目的だったのかもしれません。ちなみに法華宗徒は京都の上層町衆なので、枚方寺内町の町衆と合わせて幅広い層の民を自分たちの力にしようという狙いもあったのでしょう。


ここにも手掛かりが
寺内町の痕跡は枚方小学校周辺にも

 枚方小学校西側の道路に直交するように路面がへこんでいるところがあります(写真1)。このへこみは、地下に埋もれた堀のあった証。当寺内町は石山本願寺の出城でもあったため、堀を掘って、いつか始まる戦いに備えていたようです。 また、枚方小学校の発掘調査で戦国時代の火葬場跡(写真2)や土器(写真3)が発見されました。火葬場はその特徴から寝棺式と呼ばれる僧侶など身分の高い人のためのものだったことがわかっています。実従もここで火葬されていたのでしょうか?興味が尽きません。

写真3
大隆寺で出土した甕
小学校で出土した土器

井戸:この調査までは堀がある場所が枚方寺内町の端だと考えられていました。でも今回の発見で、実はもっと外側にも広がっていたのでは?という新たな謎が生まれたんです。しかしこれもまだ謎のほんの一部が見えてきたところ。今後も調査を続け、もっと枚方の歴史を明らかにしたいですね。


枚方寺内町は枚方の原点

井戸:戦いによって枚方寺内町は少し衰退しますが、その後宿場町の役目も加わり、次の時代、そして現在へと続いていきます。

市長:ここに寺内町ができたからこそいまの枚方があるんですね。

井戸:いわば「枚方の原点」ですね。まさに「枚方元町」!

市長:枚方宿ができる前に、丘陵地を中心とした寺内町があったとは驚きでした。

井戸:江戸時代にはその枚方宿を中心に発展していきます。枚方の知られざる歴史は、まだまだあるんですよ!

市長:たくさんの市民に、今回のように身近なところにある歴史をどんどん知ってもらって枚方への愛着を深めてもらえたら嬉しいですね。井戸さん、西本さん、これからも調査や情報発信をよろしくお願いしますね。

井戸・西本:はい!