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枚方市の平和施策

[2015年3月5日]

ID:3340

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枚方市には、戦前、火薬製造所など旧陸軍施設が3か所もあり、その一つ禁野火薬庫が1939(昭和14)年3月1日に大爆発を起こし、約700人もの死傷者を出しました。こうした惨事を風化させないよう、1982(昭和57)年に大阪府内で初めて「非核平和都市」を宣言しました。また、爆発から50年後、そして、1954(昭和29)年3月1日に第五福竜丸がビキニ環礁でアメリカ軍が行った水爆実験に遭遇し、被爆した日から35年後の1989(平成元)年に、3月1日を「枚方市平和の日」と定め、毎年さまざまな記念行事を行っています。

そのほかにも、毎年夏には子どもたちを対象に、平和に関する映画会などを開催しており、また、市内の多くの小学校では修学旅行で広島を訪れ、平和学習をしています。

今後も、戦争の悲惨さと平和の尊さを若い世代に伝えるため、平和に向けての啓発活動に取り組んでいきます。

街中で遊ぶ子供たち

非核平和都市宣言までの歴史

人口40万人の平和な大都市になった枚方市も、戦前には旧陸軍の禁野火薬庫、枚方製造所、香里製造所の三つの工廠がありました。1939(昭和14)年3月1日、禁野火薬庫の大爆発により大きな被害を受けました。
平和を考えるとき、改めて戦前からの状況を知っておく必要があります。

禁野火薬庫の内部

禁野火薬庫の内部写真1
禁野火薬庫の内部写真2

禁野火薬庫の設置

1894(明治27)年日清戦争が始まり、陸軍は軍備拡張のため各地に施設をつくる決定をしました。
牧野村の渚・禁野に1896(明治29)年10月、禁野火薬庫が完成し、綿火薬庫・弾薬庫など20数棟の建物がつくられ、1棟ごとに高い土塁で囲まれていました。

禁野火薬庫の爆発

1939(昭和14)年3月1日午後2時45分、禁野火薬庫の第15号倉庫で砲弾解体中に不意に発火し、てん薬弾に引火して天地を揺るがす大爆発が起きました。
ドカーン、ドカーン!!爆発音は京阪一帯に響きわたり、真っ赤になった弾薬や破片が飛び散り、午後7時までに29回の爆発を繰り返し、3月3日正午になってようやく火災はおさまりました。炸裂した弾丸の破片は半径2キロに飛散し、禁野・中宮など近隣の集落に延焼しました。陸軍の報告書によると、死者94人、負傷者602人、家屋の全半壊821戸、被災世帯4425世帯に達しました。

「平和の日」制定

3月1日は枚方市平和の日

昭和14年3月1日に起こった大惨事 ~禁野火薬庫の大爆発~

旧陸軍禁野火薬庫が大爆発を起こしたのは、1939(昭和14)年3月1日。天地を揺るがす爆発が約4時間、29回にわたって繰り返され、死傷者約700人、全半壊した家屋約821戸に及ぶ大惨事となりました。
枚方市は、大爆発が発生した日から50年後、そして、1954(昭和29)年3月1日に第五福竜丸がビキニ環礁でアメリカ軍が行った水爆実験に遭遇し、被爆した日から35年後の1989(平成元)年に、2つの大惨事を風化させず、市民一人ひとりが平和の大切さと平和への貢献について考える日として3月1日を「枚方市平和の日」に制定しました。
1991(平成3)年には、禁野火薬庫や枚方製造所から砲弾などを運んだ軍用鉄道敷を「中宮平和ロード」として整備しました。また、中宮団地内には火薬庫の延焼を防ぐための土塁が今も残っています。

禁野火薬庫の大爆発で避難する人々

禁野火薬庫の大爆発で避難する人々の写真

ひらかた平和マップ

ひらかた平和マップの画像

平和を願う妙見山の煙突(旧陸軍香里製造所)

戦争につながる建造物を後世に残し平和のモニュメントにしようと、1984(昭和59)年香里製造所の煙突を永久保存することにしました。
この煙突は、宇治火薬製造所から運ばれてきた湿った火薬をスチーム熱で乾燥させるために建てられたものです。
戦後、旧香里製造所は香里団地に生まれかわりましたが、計画外にあった煙突は撤去を免れ、水道局妙見山配水池の敷地内にそのまま残りました。

妙見山の煙突 

枚方製造所跡の土塁

枚方製造所・禁野火薬庫ともに火薬を収蔵した倉庫は、爆発しても被害が拡大しないように、倉庫の屋根の高さまで達する堅牢な土塁で1棟ずつ囲まれていました。1945(昭和20)年の終戦により軍施設は閉鎖され、以後周辺開発に伴い土塁や建物・施設等は取り除かれましたが、高陵小学校の南側には禁野火薬庫の土塁が、また、東側の校門付近や中宮第三団地内(写真)には枚方製造所の土塁が残り、戦争の生き証人となっています。

枚方製造所跡の土塁

中宮平和ロード

戦前には津田駅から禁野火薬庫と枚方製造所まで、軍用鉄道(現国道307号)が敷かれ、毎日大量の火薬や砲弾などが戦地に向けて積み出されていました。
1991(平成3)年に、この軍用鉄道敷の一部であった中宮本町から中宮西之町までの約600メートルを「中宮平和ロード」として整備しました。
ここでは、昔の鉄道敷をしのばせるSL形のトンネルや線路沿いに立てられていた軍用電柱等を保存・設置しています。

SL形のトンネル

非核平和宣言都市の標柱と銘板

標柱は1984年、市内3か所に設置
(津田生涯学習市民センター・北部支所、国道307号線沿い(尊延寺))

銘板は1986年、市役所本館・別館、香里ケ丘支所に設置

非核平和宣言都市の標柱と銘板

平和の像

平和の像「恒久平和」

平和の像「恒久平和」は、平和を望む市民の寄付金を基に、戦争による犠牲者の霊を慰めるとともに、核兵器の廃絶のシンボルとして1987年、王仁公園内に建設されました。彫刻家・池田遊子さんの作品です。

平和の像「語らい」

平和の像「語らい」は、香里製造所の跡地に建設された香里団地の中(香里ケ丘3丁目)に、平和のモニュメントとして1994年に建設されました。彫刻家・田中彰さんの作品です。

平和の鐘ヒラリヨン

平和の鐘「ヒラリヨン」(カリヨン)は、21世紀の平和のシンボルとして、1997(平成9)年、市制50周年を記念して岡東中央公園に建設されました。

平和の鐘ヒラリヨン

カリヨンとは、調律された鐘を複数組み合わせてメロディーを演奏する組み鐘のことで、市民公募により決定された愛称「ヒラリヨン」は、枚方とカリヨンの合成語です。
ヒラリヨンからは1日10回定時にメロディーが流れ、その美しい音色は人々に親しまれています。

平和に向けての啓発活動

-語り継ぐ戦争の悲惨さと平和の大切さ-

平和を願う黙とうを

市は、原爆が投下された8月6日午前8時15分(広島)と、9日午前11時2分(長崎)、終戦の8月15日正午に、原爆と戦争犠牲者のめい福、世界の恒久平和を祈念して岡東中央公園の平和の鐘ヒラリヨンを鳴らし、1分間の黙とうを市民の皆さんに呼びかけます。

戦争資料提供のお願い

終戦から半世紀以上が経過し、戦争を知らない世代が大多数を占める今日、戦争の悲惨さを伝えることは難しくなってきています。
そこで、市は、市民の皆さんから戦争に関する資料を提供していただき、平和事業の開催時に展示するなどして、平和の大切さを改めて訴える機会にしたいと考えています。ご協力をお願いします。

お問い合わせ

人権政策室人権・非核平和担当

電話: 072-841-1259

ファクス: 072-841-1700

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