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大和国平群郡某郷長解(三浦家文書)

[2017年2月17日]

ID:2951

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大和国平群郡某郷長解(三浦家文書)の画像です
三浦蘭阪が法隆寺から持ち帰った古文書です。
 この文書は、延長7年(929)に大原史誦師麿(おおはらのふひとじゅしまろ)が法隆寺僧泰増に土地を売却した際の証拠文書です。こうした土地売買証文を「売券」(ばいけん)と呼びます。この土地は、誦師麿の師が法隆寺の長覚大法師から入手したもので、延長2年の師の死去にともなって誦師麿が相続しましたが、この年正月の誦師麿母の死去によって葬地購入費用が必要となったため、売却を決めたようです。
 表題の「郷長」は50戸からなる郷の長、「解」(げ)は上申文書の意味です。この史料は売主の申し出をうけて郷長が作成し、これに売主誦師麿とその近親、買人泰増らの署名を加え、さらに保証人として土地の有力者である刀祢平群朝臣将冨(とねへぐりのあそんまさとみ)ら6名の署名をとったうえで、平群郡の郡司に提出されました。郡司はその契約を証明するため、全面に「平群郡印」を捺しています。ただし、郷長の署名がないことから、おそらく契約の体裁上、郷長が記したことにされているだけで、実際にはこの契約に郷長は関与していないと思われます。
 郡印に注意しながらこの古文書をよくよくみると、捺しかたが他のと異なり、斜めになっているものが右端に確認できます。これは買主泰増が、のちにこの土地を別の者に譲ったことを意味しています。その際、新たにもう一通の土地証文を作成し、この部分に貼り継いだうえで、改めて郡司に提出されたのでしょう。郡司は2通が一体のものであることを証明するために、この継ぎ目に割り印を捺した、斜印はその痕跡と考えられます。
 なお、この古文書で売買の対象となったのは、「平群郡八条九里廿七坪内字豊国」とされます。ここにみえる数字は、古代に平野部において施行された条里制と呼ばれる区画整理によって付けられた地番です。ここから、現在の法隆寺南大門と斑鳩町役場を結ぶ対角線上の中間点あたりの土地をさしていることがわかります。
  三浦家文書には、このほかに康保4年(967)・天仁3年(1110)・保延2年(1136)・承元2年(1208)・貞応2年(1223)の古文書や、平安時代の大般若経、鎌倉時代の法隆寺僧である顕真の蔵書印が捺された「要義綱集」などの法隆寺旧蔵史料が含まれています。

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