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東高野街道

[2014年5月9日]

ID:2911

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東高野街道(ひがしこうやかいどう)とは

東高野街道は京都と高野山(こうやさん)を結び、河内国(かわちのくに)を縦断(じゅうだん)する道です。京都から石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に至り、洞が峠(ほらがとうげ)を越えて、生駒西麓(いこませいろく)を南下(なんか)、河内長野(かわちながの)で大坂・堺から南下してきた西高野街道(にしこうやかいどう)と合流し、紀見峠(きみとうげ)に至ります。
平安時代(へいあんじだい)の終わり頃から高野聖(こうやひじり)の活動により、高野山参詣(さんけい)が盛んになり、多くの人が行き交う道となりました。
枚方市内(ひらかたしない)では洞が峠を越えて茄子作(なすづくり)の東を通りますが、出屋敷(でやしき)や茄子作の本尊掛松(ほんぞんかけまつ)の付近には街道の面影(おもかげ)が残り、また街道周辺の村落、楠葉(くずは)・出屋敷・大峰(おおみね)・藤田(とうだ)などには弘法大師(こうぼうだいし)にまつわる伝説や伝承地が残っています。

枚方市古道

東高野街道の出屋敷地区、茄子作地区については下記のマップをご参照ください。

また、東高野街道以外にも、枚方市内には多くの古道が残っています。

京街道(きょうかいどう)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)は文禄(ぶんろく)3~5年(1594~1596)、伏見城(ふしみじょう)と大坂城間の水陸交通路の整備を行います。この時、淀川左岸(よどがわさがん)に築かれたのが文禄堤です。のちにこの堤上の道が京街道となり、大坂と京都を最短距離で結ぶ道となりました。江戸時代には、守口(もりぐち)・枚方・淀(よど)・伏見の4カ所に宿駅(しゅくえき)が設けられ、淀川の舟運(しゅううん)とあいまって、人やモノの往来(おうらい)が盛んでした。

山根街道(やまねかいどう)

交野郡(かたのぐん)の山際(やまぎわ)を南北に通る道です。八幡(やわた)で東高野街道から分岐し、長尾(ながお)・藤阪(ふじさか)・津田(つだ)を通り、茄子作の東方で再び東高野街道に合流します。

河内街道(かわちかいどう)

河内の平野部を南北に通る道です。枚方から中振(なかぶり)、寝屋川(ねやがわ)を経て、東高野街道よりも西側を南下し八尾(やお)に至ります。室町時代(むろまちじだい)には河内を支配していた守護畠山氏(しゅごはたけやまし)の拠点があった若江城(わかえじょう、東大阪市)や菩提寺(ぼだいじ)の真観寺(しんかんじ、八尾市)と京都を結ぶ重要な道となり、織田信長(おだのぶなが)は河内攻めの時にこの道筋(みちすじ)を通りました。

岩舟越道(いわふねごえみち)

枚方から天野川(あまのがわ)に沿って山之上(やまのうえ)・村野(むらの)を南下、磐船渓谷(いわふねけいこく)を通過して奈良方面に向かう道です。

尊延寺越道(そんえんじごえみち)

枚方から東に進んだのち穂谷川(ほたにがわ)をさかのぼり、尊延寺の東で山越えをし、南山城(みなみやましろ)方面に向かう道です。「普賢寺越(ふげんじごえ)」「田辺街道(たなべかいどう)」と記されている場合もあります。また、東高野街道から惣喜池(そうぎいけ)までは2通りの道筋がありました。

荒坂嶺道(あらさかとうげみち)

枚方から田口(たのくち)、長尾(ながお)を経て、荒坂山を越え、八幡市内里河原(うちざとかわら)に至る道です。「宇治海道(うじかいどう)」「宇治街道」「長尾道」と記されている場合もあります。

街道について

※街道については、大阪府教育委員会『奈良街道 歴史の道調査報告書第4集』1989年、『京街道 歴史の道調査報告書第5集』1989年を元に作成しています。


東高野街道への別ルート